「函館港まつり」は、昭和9年未曾有の大火に襲われ、大変な痛手を受けたことが契機となっています。
大火から約1年を経て、日本全国ばかりか海外からも寄せられた膨大な義援金を基に住宅や施設が供給され、人身は落ち着きを取り戻しはじめました。
そこで、市民の心を更に盛り上げようという当時の海運業組合長、谷徳太郎の意見を受け、「開港記念日」を制定する案が浮上し、これに合わせて祭りを盛大に行い、市民の慰安と気分一新を図ろうと、当時の市長であった坂本森一が筆頭となり第1回函館港祭りが開催されました。
坂本森一市長からの出された「港祭りメッセージ」を要約すると
(1)昭和10年は安政6年から数えてちょうど77年目にあたる「喜寿」の年でもあるので縁起が良く、函館市として盛大な祭典を挙行するのは時宜を得たものであること
(2)従来「函館人」には「人の和」に欠けるところがあって、函館が「大を成すに付き障害」となっていること
(3)前年の大火災に遭って 意気消沈している市民の精神を鼓舞して前途に邁進する活力を付けることなどをあげて祭典の効用について述べられました。
行事は、7月1日から3日間にわたり、初日は西浜岸壁の上屋に来賓、市民1,000人が集まって記念式典と祝賀会を開き、2日目は函館公園で物故市功労者の慰霊祭を実施しました。
こ の期間中、各町会では踊り舞台を設け、老若男女が輪になって踊りました。また、協賛の催物も多く、軍艦拝観、花電車運転、花自動車行列、オートバ イ行列、小中学生の旗行列、商店街の仮装行列と万灯行列、大名行列、松前神楽、江差鹿舞、商店訪問マラソン、懐古展、煙火大会、街頭放送等で市中は大いに 賑わいました。
この第一回の祭で「函館港おどり」が出来ました。
また、昭和55年に、市民有志のグループが考案した「いか 踊り」が誕生し、昭和56年に港まつりへ参加。「いか踊り実行委員会」を結成した人たちは、それぞれ職業を異にしながらも、準備を行い、当初25人ほどで 始まったものではありますが、簡単な振り付けと踊りということもあり、年々参加者が増加しています。
※[函館市史]を参考。